2006年9月
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1829年から1901年の間、西オーストラリア、コサックに住み、働いていた日本人
(西オーストラリア大学プレス1998年、ウェルターゲーブルとアンアトキンソンによる調査報告)
ブルームや木曜島の日本人社会の歴史は有名ですが、はたしてコサックを含める他の北西地域にも日本人社会があった事を知っている人はどれだけいるでしょうか。インターネットでサーチしても何の情報も出てきません。自分はカラーサに住んで初めて、すぐそこに日本人社会があったことを知り、同じ日本人として忘れられていた日本人の歴史調査に乗り出しました。とりあえず、かつて日本人街もあった、コサックに生きていた日本人の記録を下に紹介。
この記録は英語表記の物を基にしている為にわけのわからないところもいくつかあります。名前はこのページでは平仮名で記します。読みにくい字もあるため、すべて正確な情報であるとは言えません。?マークのついているものは特に不明な情報です。
氏名 | 性別 | 出生年月 | 出身地 | 軌跡 |
あみの とくいち | 男性 | 1879年 | 和歌山県 | 1897年5月に到着。1916年、ブルームで洗濯屋の仕事をする。1917年にローボーンに移り住む。1918年にブルームに戻り、1919年にコサックに移る。1918年4月から1919年6月の間は海外へ旅行に出、1926年4月に西オーストラリアを去る(たぶん日本へ) |
あんどう へいぞう | 男性 | 1876年1月 | 紀伊 | 1898年6月に到着。記録によると短くても1916年から1925年までの間はコサックで大工と漁師を営む。1919年から1921年の間、数ヶ月をポートへドランドで過ごす。1926年1月から1927年11月までの間は海外へ旅行。 |
はまの へいじろう | 男性 | 1871年8月 | 神戸市 | 1890年10月到着。1916年にブルームマーケットガーデンにて庭師を営む。1917年、コサックに移る。1920年日本へ帰国 |
はみのち おいと | 女性 | 1872年7月 | 長崎 | 1888年に到着。1916年、ブルームにて服の仕立て屋を営む。1917年はポートへドランド、ブルーム、コサックと転々とし、1921年までコサックに住み、その後またブルームに戻る。 |
はやし F | 1873年2月 | 長崎 | 1888年12月西オーストラリアに到着。コサックで洗濯屋の仕事をする。1898年に帰化の申請をするが却下される。 | |
はやしだ いし | 女性 | 1878年 | 長崎 | 記録によると、1929年にブルームで服の仕立て屋をする。1941年にはコサックに移り、家政婦となる。1930年2月から1933年2月までは海外へ旅行に出る。 |
ひがし きいち | 1881年 | ? | 1897年に到着。記録によると、コサックで調理師として働く。 | |
あまの ひすたろう | 男性 | 1871年 | 1897年に到着。1903年に海外旅行へ出るまでは、金細工士としてコサックで働く。 | |
いぐち とよぞう | 男性 | 1880年8月 | 紀伊 | 1898年12月に到着。記録によると1916年に潜水士と洗濯屋として働く。1917年にブルームに移り、洗濯屋をする。1921年にはジェラルトンに移り、洗濯屋として働く。 |
いなり よさまつ(よさきち) | 男性 | 1866年 | 石川県 | 1893年に到着。1916年に潜水士として働く。1941年はしげのさんのコンパニオン(お付の人?)としてコサックに住む |
こうだ とよきち | 男性 | 1873年 | 串本町 | 1893年に到着。1907年に海外旅行へ出るまでローボーンにて洗濯屋をする。1909年から1913年にまた海外旅行に出るまで、コサックに住んでいたと言う記録がある。 |
かわはら ちくごろう | 男性 | 1879年12月 | 日本 | 1897年12月に到着。ローボーンとコサックで洗濯屋をする。短くても1909年から1919年までは西オーストラリアを離れていた記録がある。1909年から1915年までは海外旅行へでる。 |
こやま じんのすけ | 男性 | 1876年1月 | 神戸市 | 1893年12月に到着。1893年から1895年までコサックに住む。その後、1900年までカナーボンに住み、その後、1903年までブルームに住む。1903年にキューに移る。1916年にジェラルトンにてアーサーオニールの庭師として働いた記録がある。1907年1月から1921年10月まで海外旅行へ出る。 |
まさの | 女性 | ? | ? | 娼婦。1898年、コサックで嫉妬深い日本人の愛人に怪我をさせられる。1977年、切断?、分裂?(Scissons) |
まつむら ぎた | 男性 | 1874年 | 日本 | コサックに住み、1905年に日本へ帰国 |
まつはら(まつばら) | 1898年、コサック日本人社会の主導者だった記録がある。むやだ くんぎ(かんぎ?)を雇う。 | |||
ますもと よしまつ | 男性 | 1874年 | 紀伊 | 1893年7月に到着。1910年から1917年まで大工としてコサックで働く。その後、ローボーンに移る。1919年にコサックに戻り、1921年にはまたローボーンに戻る。5回、海外旅行へ出る。 |
むらかみ しげの | 女性 | 1898年 | 1925年から1926年まで海外旅行に出ている間、ブルームに住んでいた既婚女性 | |
むらまつ はつ | 女性 | 1883年 | 1897年に到着。1919年から1926年までコサックに住んでいた既婚女性。むらまつじろうの妻、また、むらまつまりえ、はるの母。第二次世界大戦中はダーウィンの収容施設に入れられ、戦後、再びコサックに戻り、1950年代に真珠採取業の再開を試みるが失敗に終わる。 | |
むらまつ じろう | 数隻の真珠採取船の持ち主であったと言える。戦時中、収容施設に入れられ、生き延びずに亡くなる。 | |||
むらまつ まりえ、はる | 1913年 | コサック | 1919年1月から1930年12月まで海外旅行へ出る。 | |
むらまつ さくたろう | むらまつじろうの父。コサックには1888年に到着し、織物製品の商売を始める。1890年代のオーストラリア北西において、一番影響をもたらした日本人であると報告される。1897年2月、ローボーン病院で亡くなる。コサック墓地に眠る。 | |||
むらた はつえ | 女性 | 1899年7月 | コサック | 1916年、ブルームで家事手伝い。1918年にブルームを去り、1920年に日本で亡くなったという報告がある。 |
むらた しげの | 女性 | 1897年 | コサック | 1913年10月から1919年2月まで海外旅行に出る。 |
むやだ(まゆだ) かんじ | 1868年 | 神戸市 | 1898年、コサックのまつはら家の庭師として雇われる。 | |
おおくぼ ひでのすけ | 男性 | 1876年4月 | 神戸市 | 1893年に西オーストラリアに到着。ブルームに6ヶ月滞在し、その後1894年から1902年までコサックに住む。1910年にはキューにて洗濯屋をする。1916年には、イーストチャプマンとジェラルトンで庭師をする。1941年にはWaggrankineとジェラルトンで庭師。1910年に海外旅行に一度出る。 |
なかやま さんごろう(おかじ) | 男性 | 1875年10月 | 日本 | 1895年11月に到着。1909年、コサックで潜水士、1918年、ローボーンで調理師をする。1919年にはブルームへ移る。1909年から1916年は海外旅行へ出る。 |
ねしお フランク | 男性 | 1864年10月 | 神戸市 | 1887年に西オーストラリアに到着。1892年12月にコサックに移り、洗濯屋として働く。1898年10月に帰化の申請をするが却下される。その後間もなく、結婚の為に日本へ帰国。1899年10月に日本から西オーストラリアへ戻る許可の申請をし、許可が下りる。 |
おくば(おおくば、おおくぼ) ひでのすけ | 男性 | 1876年4月 | 神戸市 | 1893年6月、西オーストラリアに到着。ブルームに6ヶ月滞在した後、1894年から1902年までの間コサックに住む。 |
おみと(すいと?)OMITO Suito? | 1892年 | 記録なし | ||
おはみい?OHAMY? | 1892年 | 記録なし | ||
おゆにい?(おゆみ?)OYUNIE? | 1892年 | 記録なし | ||
おれい | 1892年 | 記録なし | ||
さかもと | 男性 | 1863年4月 | 日本 | 1886年6月に到着。1916年コサックで庭師をする。 |
ささき さくたろう | 男性 | 1872年11月 | いよ | 1896年1月に到着。1916年に大工として働く。1941年、コサックのむらまつ家の大工だった記録がある。 |
しげの よしろう | 男性 | 1875年 | 1920年に到着。1941年にむらまつ家の真珠採取船を扱うビジネスマンだった記録がある。また、1930年代、コサックにあるむらまつじろうの店を任されていた。 | |
そそき(ささき)さくたろう | 男性 | 1872年11月 | いよ | 1896年1月に到着。1916年コサックで大工を営む |
とくまる かめじろう | 男性 | 日本 | 1893年に西オーストラリアに到着。コサックの大きな店と家の持ち主。 | |
うしのみや(うつのみや)ちおまつ | 男性 | 1853年9月 | 神戸市 | 1891年1月に到着。1891年から1895年までコサックに住み、その後ブルームに移る。 |
うつみ きちごろう | 男性 | 1874年3月 | 日本 | 1896年に到着。1910年にコサックに住む。1914年にベラベラで、1918年にウィムクリークで洗濯屋として働く。 |
やまもと いと | 女性 | 1878年1月 | 長崎 | 1897年7月に到着。やまもととくかの妻。1912年、家事手伝いとしてコサックで働いた記録がある。 |
やまもと さんしろう | 男性 | 1859年4月 | 紀伊 | 1893年7月に到着。1916年、漁師としてコサックで働く。1919年にポートへドランド、1920年にブルームへ移る。 |
やまもと とくか | 1873年6月 | 神戸市 | 1895年に到着。やまもといとの夫。1912年、コサックで洗濯屋として、1916年にジェラルトンのサンダルウッドヒルズファームで庭師として働く。 | |
やまもと やすとろう | 男性 | 1872年9月 | 紀伊 | 1897年10月に到着。1916年、コサックで洗濯屋として働く。 |
やまな すえ | 女性 | 1875年9月 | 紀伊 | 1896年に到着。1916年にコサックで調理師として働く。その後、ポートへドランド、ブルームに移動する。 |
やました よしたろう | 男性 | 1867年10月 | Posa?(土佐?) | 1893年9月に到着。1916年、ポートへドランドで洗濯屋として働く。1917年に、ローボーン、コサックに移り、1918年にブルームにで働きにいくが、6ヵ月後にローボーンに戻る。1930年にブルームで亡くなる。 |
下記の記録は1894年から1904年までの間にRoeborne(コサック、カラーサ周辺)で亡くなった日本人
役所の記録参照。ローボーン、歴史調査員の調べ。
1905年からの記録は調査中です。
氏名 | 職業 | 没年 | 享年 | 死亡した場所 | 死因 | 墓地 | 備考 |
やまださん | 1894年5月15日 | 34歳 | コサック | ||||
まつおか(まつあか?)さん(So day asu Mabujiro?) | 1894年9月9日 | 45歳 | マーブルバー | 水腫 | |||
TAURIRMATSU? おきさん | 1895年5月10日 | 35歳くらい | ローボーン | 赤痢 | |||
いけだ かねふささん | 1896年2月1日 | 29歳くらい | 日本人宿11番 | コサック墓地 | 小柄 | ||
なかむら ひゃくまつさん | 1896年2月13日 | 22歳と9ヶ月 | 病院 | 赤痢 | ローボーン墓地の外 | ||
さいとう いわまつさん | 船員 | 1896年3月9日 | 35歳 | 日本人宿15番 | 脚気 | コサック墓地 | |
まるやま さんのすけさん | 船員 | 1896年4月29日 | 33歳 | ローボーン病院 | 腸チフス | コサック墓地 | |
こばやしさん | 潜水士 | 1896年5月6日 | 30歳 | ローボーン病院 | 腹膜炎 | コサック墓地の外 | |
しまもと Kecherloiss?さん | 1897年4月25日 | 7週間 | 胃 | コサック墓地の外 | いちしまもととおがChijous?(日本人街のBoss)の息子 | ||
おだ まるぞうさん | 真珠採取 | 1897年10月26日 | 20歳 | ローボーン | リウマチ熱 | コサック墓地 | |
こやま すめちゃん | 1897年11月6日 | 6週間 | ローボーン日本人街 | ローボーン墓地の外 | こやまよしまつとShimluina?よしもの娘 | ||
あらき おちお(おちよ?)さん | 1897年10月30日 | 25歳 | コサック日本人街 | コサック墓地 | あらきとらきちの娘 | ||
おかじ ごろきちさん | 漁師 | 1897年11月25日 | 35歳 | ローボーン病院 | 脚気 | コサック墓地 | |
やの せいちちゃん | 1897年11月27日 | 53日 | Marasmus? | やのかくべいとうめもとつねの息子 | |||
Fijicover? Korichi?さん | 1898年1月12日 | 34歳くらい | コサックから2マイル | ローボーン墓地の外 | |||
まつもと かんさん | 1898年2月6日 | 22歳 | ローボーン日本人街 | 脚気 | ローボーン墓地の外 | まつもと こうたろうの娘 | |
まつした ごんきちさん | 漁師 | 1898年2月9日 | 17歳 | 日本人街 | 脚気 | コサック墓地の外 | まつしたひよざとおこさの息子 |
ねせ Masat?さん | 1898年3月4日 | 20歳 | ローボーン病院 | 赤痢 | ローボーン墓地の外 | ||
たげま へいすけさん | 日本商品店の店主 | 1898年3月14日 | 34歳 | ローボーン日本人街 | 脚気 | コサック墓地の外 | |
Dayjuma?さん | 1898年3月22日 | 23歳 | コサック | 脚気 | コサック墓地の外 | ||
かわかみ かめきちさん | 労働人 | 1897年4月14日 | 30歳くらい | Yule station | 肺炎?Inflambauets? | 鎖につながれて | |
かみじょう ぜんじゅうさん | 教師 | 1898年5月22日 | 38歳 | ローボーン病院 | 赤痢 | ローボーン墓地の外 | |
Nowchee?さん | 労働人 | 1898年4月3日 | 55歳くらい | ローボーン日本人街 | Exposure? | ハーディング川の裏 | |
きよせ しょうぞうさん | 庭師 | 1898年6月20日 | 35歳 | ローボーン病院 | 脚気 | コサック墓地 | 勘当されて1890年に日本に返される? |
なかむら ゆうぞうさん | 庭師 | 1898年8月7日 | 50歳 | ローボーン病院 | 赤痢 | ローボーン墓地の外 | |
にしうら おすえちゃん | 1898年8月12日 | 3日 | 日本人街 | ぜんそく? | ローボーン墓地の外 | にしうら たにぞうとやましげおいとの娘 | |
Muskay? こまへいさん | 労働人 | 1899年9月14日 | 43歳 | ローボーン病院 | 赤痢 | ローボーン墓地の外 | |
なかもと Olera?さん | 1899年9月27日 | 27歳 | 日本人街 | 卒倒、気絶 | コサック墓地 | ||
すずき ともきちさん | 大工 | 1899年10月24日 | 35歳くらい | コサック日本人街 | 自殺 | コサック墓地 | |
こまこえ O'Din?さん | 1899年10月24日 | 20産くらい | コサック日本人街 | 上のすずきさんに射殺される | コサック墓地 | ||
きくたけ くいじろうさん | 1900年1月28日 | 36歳くらい | |||||
Kangauyan?さん | 1901年6月28日 | 37歳 | |||||
たなか ためさん | 1902年4月28日 | 24歳 | ローボーン墓地 | ||||
ふきえだ じゅんきちさん | 1903年3月7日 | 48歳 | コサック墓地 | ||||
こやまさんの子 | 1903年10月8日 | 11時間 | こやましんじろうの子 |
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