草間實(くさま みのる)



草間實出演映画:http://www.jmdb.ne.jp/person/p0242960.htm

(草間實の次女、光枝さん談)

1899年(明治32年)5月15日、東京神楽坂に産まれる。
本籍は茨城県水海道市(現在の常総市)大輪町で父、草間豊州と母、楽(らく)の次男として生まれた。
二黒土星の玄年の、血液型はO型


1920年(大正9年)

實は早稲田実業学校を経て1920年(大正9年)東洋音楽学校を卒業する。
21歳でバイオリンの教師となり、一時期は自分の楽団も持っていた。


1921年(大正10年)


沢正(サワショウ)事、沢田正二郎が創立した新国劇の研修生にバイオリンの手ほどきに行き美男子振り、美丈夫を沢正に認められその研修生第一期生となる。
東京の舞台に返り咲く時、沢田正二郎念願の東京進出を果たした時の頃の事であった。

沢正は、1916年に早稲田大学英文科を卒業した後、坪内逍遥(つぼうち しょうよう)が主宰する文芸教会演劇研究所とかかわった後、新劇団、美術劇場を結成する。日本演劇界の歴史の始まり、島村抱月(しまむら ほうげつ)や日本演劇界の初の女優、松井須磨子(まつい すまこ)と紆余曲折を経て、新劇...赤毛物と呼ばれていた外国の翻訳もの(椿姫とか)ではない、又新派と言った歌舞伎でもない中間、と言うか(金色夜叉)の様なものでもない、日本の演劇を!と苦心して創り上げた剣劇を、芝居でありながら外国映画のようなスピードや迫力のあるものをと考えた末、新国劇を創立し、関西、京都、大阪でやっとやっと認められる。


1922年(大正11年)


同期の役者
沢正の劇団は浅草へ進出。新国劇時代、草間實の同期として浅野進治郎、渋い脇役を通したが生涯を通じて親友、親戚の様に交流した渡草二(わたり そうじ)、浅草オペレッタへ移行して行った混血の藤原義江(よしえ、女の名前の様だと思うだろが男性)、後年、仇役で名を上げたウエキチこと、上田吉次郎が居た。


1925年(大正14年)


映画界へ
新国劇と映画会社、東亜キネマのユニット作品、「国定忠治」に沢田正二郎が忠治役、役名円蔵に野村清一郎等の新国劇の幹部出演の中に、劇団員となってからまだ間のない草間實が八州役人、中山清一郎役を演じた。これが實にとって映画界への第一歩になる。


1926年(大正15年〜昭和元年)

美貌、美丈夫さを映画界が見逃す訳はなく、映画界へ進出。
高松プロダクションに入社。
「辻斬り縦横組(つじぎりじゅうおうぐみ)」、「剣侠無明けんきょうむみょう)」に吉頂寺光(きっちょうじ ひかる)と共演。
江川宇礼雄(えがわ うれお)監督の「国定忠治侠血編」では、主役の忠治を熱演した。


1927年(昭和2年)

阪東妻三郎プロダクションの実借的経営者の立花良介が設立した、立花ユニバーサルへ草間實も移り、悪麗(あれい)之助の「閃
影」に出演する。
他社と競作の「砂絵呪縛(すなえしばり)では、阪妻(バンツマ)こと阪東妻三郎が森尾重四郎役、草間實が美丈夫を売りに勝浦孫之丞
を演じて大々的売り出す事となり、二枚目俳優としての地位が不動の物となり、爆発的に人気が高まった。


1928年(昭和3年)

東亜シネマに移籍入社
看板女優の原駒子(はら こまこ)を相手役に「乙女観音(おとめかんのん)」や、「丹前風呂夜話(たんぜんぶろやばなし)」や、「生恋の瞳(いきごいのひとみ)」に主演する。


1929年(昭和4年)

枝正義郎監督で「月形半平太」に主演する。


1930年(昭和5年)

帝国キネマへ転社。
「先駆者の夢」に、明石録郎(あかし ろくろう)、志波西果(しば せいか)、両監督で人気投票ベストテンで第二位になる。

「旋風時代」や「マダムKO!」、「のらくら日記」等、半現代劇にもかすりの着物に袴で、ちょんまげではなく、ざんぎり頭(耳を出した普通の刈り方の髪型)で出ている。

この前後、時代劇の怪談物で、「ゲラゲラ草紙」なるちょっと恐い物にも出演している。

主に相手役は鈴木澄子であるが、その他相手役としては、森静子、沢田環、原駒子等。

当時はチャンバラ劇が多く「剣戟王、草間實」と呼ばれていたが、地味な役柄にも印象に残る物も多い。
「大高源吾」での俳人役、路通(ろつう)や、「お定の仇討ち」での役人、貝塚同心役等は茫洋たる個性を偲
ばせ、記憶されるべき好演であったと言う。


1937年(昭和12年)9日


帝国キネマが新興キネマに変わった後は、映画から離れた。

「1938年、京都市中京区河原町通り四条上る西側に、ドイツビールの酒場、Barハンブルグを開店した」と、俳優年鑑には草間實が開店した様に書いてあるが、これは妻である草間き里がドイツから直輸入し、開店したものである。1930年代は、女性名では店であれ、家屋であれ、借りる事等出来なかったからである。
東京女性(草間實の妻)が、京都のど真ん中、、、、東京に例えるならば、銀座の四丁目あたりに、それもドイツビールの本場から直輸入でビヤホールを開くと言うので話題になった。京都でそう言った店の草分け的存在だった。
当時、實の娘、草間房枝(芸名、多々良濱路 たたら はまじ)もすでに女優で、看板娘として時々店を手伝っていて、房枝を目当てに店に通っていた客も多かった。

客層としては、京大生が主流で品格のある店であった。



1946年(昭和21年)、終戦になると演劇人が続々と集まり、京都の南座をはじめ、先斗町(ぽんとちょう)の歌舞練場、京都市の労働
会館等、又、大阪の梅田界わい、長岡辺りまで芝居興業を行った。

高田稔、渡草二、六条奈美子、近衛重四郎等
「月よりの使者」、「眠とうござる伝十郎」、「ジャコマンの鉄」、「恩讐
の彼方に」、「地蔵経由来」、「脱鬼のお百」等

新国劇時代の沢正の芝居を
懐かしみながら上演していた。

1953年、万屋(よろずや)綿之助(当時は中村錦之助)や東千代之助の東映映画デビューの時機、脇役、仇役で助演し、新東宝映画に出演し始めた。
中堅所の脇役不足のためもあった。美男二枚目俳優は年齢を重ねると脇に廻っても仇役になっても存在感はあるので、新東宝では、何とか主演俳優に返り咲く方向で、と考えていてくれていた様である。


1956年(昭和31年)

安田公義監督の宝塚映画「海の小扇太」では、歌舞伎俳優、現、坂田藤十郎(当時は中村扇雀を名乗っていた)

やはり、映画デビューの作品であったが、現夫人の扇千景と共演で、ふたつの扇とさわがれ、結婚に至るのであるが、この「海の小扇太」にも、昔はスターであった鈴木伝明と共に仇役で助演している。
「白井権八」にも老け役でひょっこりと言う感じに出演している。

新東宝映画の社長、大倉貢より雇われて大々的にカムバックするべく、草間主演でと、「阿修羅三剣士」の三部作が用意された。
この時、草間實から草間長十郎に改名した。

第一部を撮り終えたが、病を得て新宿の病院で亡くなった。
1957年(昭和32年)3月27日、享年57歳の若さであった。



プロマイド (趣味の鉄砲撃ちの時)

芸名にまつわるエピソード
新国劇で初めて舞台に立つ時、「先生、芸名はどうしましょう?」と沢正に問うと、「草間實、、、、、良い名前だから本名でやりたまえ!」の一言で決まった。
新国劇でカムバックの際、社長の大倉貢は、「財を成す前、草間實のプロマイドを持って地方で売り、とぶ様に売れて、それが種銭になった様なものだ」と言って好意的に長十郎と名を改名することを言ってくれたのであるが、「何だか梨の様な名前だ」と、本人は笑っていた。
その頃、新東宝の女優に三つ矢歌子と言う新人が居て、「なんだかサイダーみたいな名前の子がいるよ」とも言っていた。
ずっと後になってから、性名のつけ方の本で色々研究してみると、草間實と言う名前は画数も陰陽も良く、本人は何の努力をしなくても破竹のいきおいで出世する名前の様であった。めぐり合わせ、生き方もあろうが、普通定年を迎え、第二の人生を始めようとする時に病死したことは、血縁者にとっても大変残念な事である。


草間實の周辺

實の父は器量好みで楽を見初めた当時は警察官で、すでに妻帯者であったが、楽は博徒の娘であったので、警察官を辞め妻と離縁し、貿易会社、遊船汽船に勤めを変え、楽と正式に結婚し三男三女を得る。

長男は次男である實とはずい分年齢差があったが頭もよく、昔はあったと言う飛び級の制度で上に成ったと聞く。
實が未だ幼い頃に病死し、實は登り長男となる。

姉二人と妹一人弟一人で、姉二人と弟も實と共に映画界に入る事となるが、妹は桃江と言い、作曲家の多唯亮(おおの ただすけ、宵待草の作曲者)と結婚するが男子二人を産み結核で亡くなった。

姉の文子は、今東光(こん とうこう)の最初の妻である。
今東光は天台宗僧侶で(法名 今 春聴)・小説家画家参議院議員などと多才で1956に『お吟さま』で直木賞を受賞。『悪名』『闘鶏』『河内風土記』など、八尾周辺の河内地方に取材した一連の「河内もの」を立て続けに発表し、流行作家となった。また『悪名』は1961勝新太郎田宮二郎出演の映画となりシリーズ化されるほど大ヒットした。

次姉の錦糸は長姉と共に帝劇(帝国劇場)の女優第一期生であった。
同期生としては、今をときめいている歌舞伎俳優中村富十郎の母、吾妻徳穂と同期であった。

弟の潔(きよし)も俳優となったが、現代劇が多く、後は映画会社新東宝の幹部となった。スクリーンに出るより裏方の方に修った様である。